布施谷節は、布施谷の住民たちの間に、いつともなく作られて、自然に歌われるようになった民謡で、その発生は300数十年もの昔にさかのぼるものとされている。布施谷というには、東から西に流れる布施川の狭い谷間約4キロの間をいうのであって、この地域には延喜式内の布施神社もあるし、真言宗の心蓮坊・光学坊・蓮蔵坊の三ガ寺があることなどから推して、ふるくから文化の中心であったことがうかがわれる。いまは、布施川の右岸の東布施が黒部市に、左岸の西布施が魚津市に属している。
布施谷節は婚礼などの祝儀歌としてよく歌われるので、「めでた節」の名もある。また、「わじま」とも呼ばれるのは、能登の「わじま節」が入りこんでいることを示すものであろう。
天和の末(1683)頃、新川地域に綿の加工業が起こり、各家庭で木綿が生産されたが、布施谷節は女の糸ひき歌として、盛んに歌われた。これは歌のふし廻しが、糸引き車を廻しながら歌うのにピタリと合ったからであろう。ところが、1900年(明治33年)代に入って、紡績業が勃興して、これからの工業が家庭から工場に移るとともにこの歌もすたれていった。
昭和5年(1930)8月8日、荒木得三(富山師範教諭)が畠山与三次郎(よそ)の歌う布施谷節を作譜されて、多少世の注目をひいた。
昭和27年(1952)3月10日、布施谷在住の有志によって、布施谷節保存会が結成され、高倉実が会長、中田久夫が副会長となり、その保存と顕彰につとめることになった。
昭和29年(1954)11月14日、東京都日比谷公会堂で開かれた、日本民謡協会主催の第5回全国民謡年次大会第一部(歌の部)に出場、第一位を獲得して優勝旗を授与された。
出場者 歌 山根浅吉 谷口行雄 尺八 山本徳蔵
このため布施谷節は、その真価が認められ、世にもてはやされるようになった。
当日の審査に当たった高橋掬太郎は、「布施谷節は歌とうたい手と尺八が渾然一体となり、全くけれん身(ごまかし)がない。布施の谷から生まれたままの姿で東京へでてきた。この素朴な歌は、新鮮そのものだ。」と述べている。これはたしかに、布施谷節の特色であり、誇りであるといえよう。
昭和31年1月13日に、黒部市指定民族無形文化財に指定、昭和59年より丸田賢一氏が保存会会長を務める。昭和60年より、東布施小学校に、民謡クラブを設立し、布施谷節を謡い継ぐようにした。その3年後には、鷹施中学校にも民謡クラブを設立する。
現在の保存会のメンバーは、大人13名、中学生16名、小学生14名、踊りの部として、高山舞踊会60名。年中行事として、福祉センター、越野荘、流杉老人ホーム、敬老会等への慰問、公民館祭り、市内小中学校の運動会、鷹施中学校の学習発表会、県中学校連盟の行事等にに出演している。
年間、約30回程度の出演依頼があり、週に一度は、小中学生の布施谷節指導にあたっている。
1 泣くな嘆くな 門出の朝に 泣けば駒さえ ままならぬ
スイスイ
2 佐渡は見えねど 能登陸続き 殿はうれしい 文続き
スイスイ
3 めでためでたの 布施谷節よ ふけば田植えが 近くなる
スイスイ
4 黒部立山 なくきじどりは 君の齢の 千代千代と