中陣のニブ流し

1.文化財の概要

○市指定年月日 昭和56年9月 8日

○県指定年月日 平成 6年2月24日

○種別 無形・民俗文化財

○所在地 黒部市中陣地区

○行事内容

ニブ流し行事は中陣集落の後ろを東西に流れる大谷川(俗称前川と呼んでいる。)で、毎年7月31日の夕方集落住民が集まって行う行事で水の祭典である。

かつては、午後仕事を中止し青年達が中心になって麦藁を縄でたばねて舟の形を作り、それに色紙や提灯・ロウソク等で飾り付けをした舟に仕上げて子供達に与えた。

最近は、50余戸のうち、子供のいる家では夏休みに入ると壮年会が準備した麦藁を使って、大人の協力をえて舟をつくる。舟の形や大きさは子供があつかいやすいように、アイデアを生かしながらつくる。

夕方になると、子供達は舟をもって公民館に集まる。壮年会では地区住民に、ニブ流しの歌や笛・太鼓をならして参加を呼びかける。みんなそろったところで、舟を掲げた子供達は列を組んで壮年団の笛や太鼓のはやしにあわせて地区内を練り歩く。地区内を一巡したところで、最後に前川の淀んだ場所に入り、舟を浮かべて壮年団の笛や太鼓のはやしにあわせて淀みのところを行き来して楽しむ。

川の両岸は祝い幕やぼんぼり提灯で飾られ、集落住民をはじめ近くの住民も参加してにぎわう。

ニブは青森のネブタと同系統のもので、滑川のネブタとともに県内では貴重な民俗資料である。昔、7月末ころは、三番草取りの真最中であったから、労働の妨げとなる眠気の精霊や1月より半年間の罪・穢その他の悪霊を舟に乗せて地区から追放しようとして行われた行事であると言われている。

2.歩みと保存

ニブ流しの行事は、”いつどのようにして生まれたか”は定かでわないが古老の話によると、”おれたちが小さいときからあった”とのことである。・昭和の初期、当時の青年団長 大野弘恵さんや太田京一さん等によって廃れつつある行事を活性化しようと言うことで、作詞 太田京一「ニブ流しの歌」を作ったり笛・太鼓にも工夫がなされた。

(昭和40年前の前川・水車への水の取水口・橋は馬や人が通れる丸太を2枚に割って作ってある。橋の上流でニブ流しが廃れ、最後を飾った丸田邦明さん。)

・昭和30年代後半になると、小麦を作らなくなったことや住民の生活様式が変わったこともあり、廃れていった。
・昭和50年代に入り、復活の声が聞かれるようになり、当時の青年団や壮年団・OBらの努力によって見事復活した。

保存

住民の生活は長く米作りを主体にした農業で支えれれていた。住民は正月・村祭り、お盆、田植え、収穫時期の休養日を大切にして楽しんだ。

ところが昭和40年代に入り、勤め人が増え、長い間農村の慣例であった休養日はなくなった。勤め・人口減・青年層不足・小麦を作らない等で衰えようとした。かつて青年であった年寄りから行事の活性化を望む声が聞かれるようになる。これを聞いた青・壮年層が立ち上がった。


(左は行事前の川掃除-刈り払い-・右はきれいになった川)

◎昭和40年ころ、基盤整備事業で前川が改修される。

◎平成9年3月14日 中陣ニブ流し伝承者養成館 完成

◎平成10年7月 ニブ橋・ニブ流しゾーン 完成

(ニブを作る山本義明さん、丸田賢一さん・ニブ流しへ)

ニブ流し・行進の歌

作詞 太田京一
作曲 丸田敦子


めでためでたの 水無月の
晦日の夜は宝船
我村さして こぎ寄せる
あなよろこばしうれしいな


来たれや友よ いざ来いよ
大舟 小舟 こぎ寄せた
えっさもっさと 宝船
運べかつげよ うんとこさ

ニブ流し・囃しの歌

作詞 太田京一
作曲 丸田敦子


めでためでたの水無月の
(ソレヤ)宝船
行列そろえて
アレワイサノサ
えっさもっさと
こぎ寄せた
運べ かつげよ
ウントコサ ウントコサ二

めでためでたの水無月の
(ソレヤ)宝船
つるとかめとの
アレワイサノサ
えっさもっさと
こぎ寄せた
運べ かつげよ
ウントコサ ウントコサ