□富山県無形民俗文化財 平成16年7月16日指定
七夕流しは、百年以上の昔から途絶える事なく、黒部市尾山地区で8月7日の夜に行われている。紙で作られた姉様人形、杉葉舟や行灯などを小川に流しやる行事である。 まず、最も大きな姉様人形が地区内を引き回され、その後、子どもたちによって作られた姉様人形、船が公民館に並べられる。夜の9時頃になると、太鼓と笛の音にあわせて、姉様人形、杉葉舟や行灯などが順に、七夕飾りの据えられた小川に流される。 七夕送りとして小舟を海や川に流す行事は、東日本の日本海側に分布する。また、紙製の姉様人形を流しやる習俗は、中部地方北部に分布が認められる。黒部市尾山地区の七夕流しはこれらの源流を考え、また、七夕行事の禊払いとしての性格や形態を知る上で貴重な行事である。これまで現存するものとしては長野県松本地方と新潟県糸魚川市のみしか知られていなかった七夕人形が、富山県黒部市でも行なわれている。七夕人形は黒部市尾山で女の子がいる家で作られ、毎年8月7日の七夕の夜、押して流される。
七夕人形といえば、家の軒に下げたり、道を横切った網に下げて飾ったりするのが一般的であるが、台の上に立てて飾る例はこれまでに知られていなかった。また尾山地区では、男の子は木製の船を作り、これを飾り立てて同じように小川に流すほか、七夕灯籠も作って流すなど集落としてまとまりのある七夕流しの行事を保っている。
尾山では8月1日から各戸で七夕の笹竹が飾られるが、7日になると湧き水を集めて集落内を流れる泉川の岸辺に集めて立てられる。以前は杭に結んで立てられていたが、最近は打ち込まれたパイプに竹を挿して立てている。上流から下流まで約150mが七夕笹の華やかなトンネルとなる。
夏休みに入ると(最近は7月24日)、男の子の小学生は船、男の子の中学生は行灯を作る。以前はお宮さんに集まり作ったが、現在は各家庭で作る。女の子は小中学生とも家々でアネサマ飾りを作る。アネサマは昔から作り方が決まっているため、その家の母親や祖母が手伝って作るが、余所から嫁が来た家では作り方を知らないので、地元で生まれ育った近所の女の人に教えてもらって作る。
アネサマは高さ約40cm、巾約25cmで、十文字に結んだ竹の横行(約40cm)を腕に見立て、縦竹(約40cm)に綿をまいて胴としその上部に紙で作った頭をつけ、胴に紙の着物を着せたものである。竹の代わりに細い角材を使う人もいる。着物の下にはおこし(腰巻き)を別の紙で付け、紙の帯を巻いて仕上げている。頭は細長い顔の両側と上部に黒い紙で髪を作っている。出来上がったアネサマは巾30cm奥行き40cmほどの板の中央に穴をあけて竹串を差し込んで立てる。アネサマの顔はちょっとうつむき加減にするのがここの伝統だという。また薄板の四隅に高さ約40cmの竹串をさす。各竹串の先端から紙で作った投網(キリコという)をかけて垂らし、投網の頂きに生花をつける。中央のアネサマの両手の先端からも投網を飾り同じように生花をつける人もいる。アネサマは華やかなキリコの飾りに周囲をかこまれ、視覚的に非常に華やかな飾り付けになっている。
アネサマは各家庭で作られるが、家の一番目立つところで製作し、その進行状況は家族全員の関心事であったという。出来上がると家族全員が見て、その出来具合を誉め、また浄土真宗で老人のいる家庭では仏壇の前に置いておくこともあったようである。
いっぽう小学生の男の子が作る船は木製で長さは30cm~50cm、幅15cm~25cm。木の板を船型に切り出し、中ほどに板をピラミッド状に積み重ねて船橋としその頂上の釘から舷にそっていくつも打ち付けた釘に糸を張り、小さな各種の色紙を旗に見立てて付け満艦飾にしている。ところどころにローソクを立てる釘が立ててある。船は毎年、小学校を卒業する子が下級生にゆずり渡し、ゆずられた下級生は船底に板を打ち付けて補修したり、満艦飾を飾り直して使用していた。この船、現在は軍艦風であるが、昔は屋形船のかたちをしていたという。
また行灯(アンドン)は、中学生の男の子が作る。ポピュラーなかたちは四角い木枠に紙を貼ったものだが、上級生になると台形にするなどかたちを工夫して作る。以前は十文字型なども作ったことがあるという。また、田植えの折に使った枠ころがしに和紙を貼り、大あんどんを作ったこともある。
これら七夕の作り物を夜になって集落のなかを流れる小川に流すのが、「尾山の七夕流し」である。
午後6時、特別に大きく作られたアネサマが手押し車に乗せられ、子ども達が曳いて集落内を練り歩く大アネサマの巡業が始る。この行事は昭和63年から始まったもので、比較的新しい。七夕流しが昭和56年に黒部市の無形文化財に指定されたのを機に保存会ができたが、この保存会で寄付金を募るようになったため、七夕行事を村の人にひろく公開する意味で、大きなアネサマを作り集落内を曳いて歩くようになったのだという。大アネサマは高さ90cm、巾80cmほどで、村の大人の女性たちによって毎年新しく作られる。
軽トラックの荷台に載せられた太鼓を先頭に、その後ろに続く数人の笛隊が囃子を奏でる。子どもたち数十人が大アネサマの綱を引き、その回りを親たちが見守りながら歩く。大アネサマの載った手押し車のかじをとるのはこれを製作した女性や婦人会の役員達である。お囃子が鳴り響くと家々から人が出て、ニコニコしながら出迎えてくれる。七夕行事がこの巡行によってさらに村の人たちに親しまれる存在になってきている。
巡行は午後7時ごろ村を一巡して終了する。
午後8時過ぎから、公民館に女の子はアネサマ、小学生の男の子は船、中学生の男の子はアンドン(行灯)を持ってそれぞれ集まる。今年はアネサマが10体、船が2艘、アンドンが3つ並んだ。公民館の中は、さながら七夕の作り物の展示場のようである。
公民館の玄関先には杉葉船(スンバブネ)が置かれている。杉葉船というのは、木の船の周囲に杉葉をさしたもので、ちょっと見ると杉派のかたまりに見える。これを作るのは昔から青年団の仕事と決まっていた(最近は壮年会も手伝って作る)。以前は二艘作り、七夕流しの先頭と最後尾を流したが、ここ十数年は1艘になり通常は先頭を流すという。
9時前になると子どもたちは七夕流し保存会の法被を着て集まり、それぞれ自分のアネサマ等を持ち出して、小川の上流に向かいだした。向かうのは森敏昭さんの家の前で、ここが七夕流しの出発点になるところである。以前はこの家が公民館の代わりをする宿となっており、子どもたちは皆この家に集まって自慢の船やアネサマを座敷に並べたのだという。
夜9時過ぎから七夕流しが始まる。森さんの家の前から、各自、自分の持っている流し物に立てているローソクに灯りをつけると小川に入る。
川幅は約80cmほど、子ども達は浮かべたアネサマや船等を押しながら一列になって小川の中を進む。男の子はアネサマのあいだにところどころ割ってはいっている。その後ろには中学生の男の子が流すアンドン(行灯)が続く。大アネサマは子ども達のあとに大人の女性たちによって手押し車ごと川に入って押されて進む。行列の最後はいつもの年は先頭を行く杉葉船だった。
七夕笹のアーチへ来ると太鼓と笛でお囃子の演奏をしており、七夕祭りの雰囲気はいやが上にも盛り上がってきた。岸辺には子どもの家族や集落の人たちが集まり、自分の子どもが来ると紙吹雪をかけて声援したり、写真を撮っている。出発点から100mほど進むと、小川は集落の別のところから流れてくる小川と合流、川幅が1.5mほどに広くなった。疲れのでてきた子ども達を親が激励しながらさらに100mほど下がると、ここで終了、子ども達は自分の流したアネサマや船を持って川からあがった。七夕流しの所要時間は20分ほどだった。
役割を終えたアネサマは、以前は翌日、それぞれの家庭で処分されていたが、最近はそのまま保存、着物や投網を新しく付けなおして翌年も使うことが多いという。
尾山の七夕流しがいつから始まったのか、地元にはそれを示す記憶等はいっさい残されていない。明治初期の生まれの人が、「昔からやっていた」と言っていたことは、少なくとも江戸時代末にはやっていたことになる。この七夕流しは江戸時代から続いていることは確実である。
昭和の戦前まで、七夕流しの時によその村から見物にきた若者たちが、アネサマを奪ってゆくことがあったという。当時アネサマ流しをしたのは村の未婚の娘だった。出稼ぎに行っていた未婚の娘も帰ってきて七夕流しをした。娘たちがアネサマ流しを始めると、よその村の若者が小川に飛び降りて、アネサマを奪って持ち帰ることがよくあった。尾山の若者たち(コワカイシュウ)はよその村の若者にアネサマを奪われるのを防ぐため柄杓を持ってきており、アネサマ奪いがあると、その若者にむかって柄杓で水をかけて追っ払ったという。
当時、尾山の七夕流しは近隣に有名で、小川の両岸は周辺の村々から来た見物人で溢れかえったという。アネサマを盗む若者は、尾山の人にあまり顔を知られていない布施川の川向こうの村々(爪・長引野・黒沢)の若者たちだった。川のこちらの中陣・釈迦堂・阿弥陀堂・内生谷・朴谷の村の若者は顔が知れているので、盗むことはほとんどなかったという。アネサマを盗んだ若者は、家に帰って「尾山でアネサマをもらった」と言って、高いところに(子どもにいたずらされないように)飾っておいたそうである。
なお他所へ嫁に行くことが決まっている娘は、最後の七夕なので板にローソク1本だけを立てて流し歩いたという。
昭和初期まで尾山の青年たちは、七夕に麦藁の馬を作った。高さ約30cm、長さ約50cmほどで、青年たちはこの藁馬を泉川のほとりに集めた七夕竹に吊した。吊し方は川を挟んだ竹と竹に縄をかけ、そのあいだに藁馬を吊した。また杉葉船にも藁馬を載せた。石川幹夫氏(昭和25年生れ)は小学生のころ杉葉船に載せられた藁馬と七夕竹に吊された藁馬を覚えておられることから、習俗は戦後まもなくまで続いていたことになる。なお富山県の民俗研究者である森俊氏は、昭和60年ころ中島信義氏に聞き取り調査をした折、七夕馬の復元製作を依頼された。中島氏は麦藁がないので、稲藁で製作して森氏に提供した。この藁馬は、昭和61年4月発行の「とやま民俗」33号に、「黒部市尾山の七夕馬」と題して写真入りで紹介されている。このなかで中島氏は、「藁馬を宮の鳥居に吊ったこともある」と述べている。
「ふるさとの風と心・富山の習俗」(富山新聞社 昭和61年)には藁馬について、「長老の中川広さんら数人は、大正初期まで40-50cmの麦ワラの馬を青年たちが三十頭も作り泉川につるした。」と記している。当時、青年たちによって毎年かなり多くの藁馬がつくられていたようである。
尾山のアネサマは昔から作り方に決まった様式があり、祖母や母から娘へと伝承されてきた。そのため尾山で育った女の人でなければアネサマを作れないと言われている。余所から尾山へ嫁入りした人は、自分の娘がアネサマを作る年頃になると、娘の祖母あるいは近所の作り方を知っている女の人に頼んで娘がアネサマを作るのを手伝ってもらう。
作り方の概要は次のとおりである。
今はいろんな模様紙を使って華やかなアネサマが作られているが、以前は艶紙だけで作った。使うのは、黒色・黄色・赤色の三色の艶紙が標準だった。この艶紙は地元の雑貨店で売っていた。アネサマは顔を含むかしらを作るのが一番大変で、かしらがうまく出来るとよいアネサマができる。まず顔は細長くシワがよらないように、障子紙に綿を入れてくるくる巻く。前髪と鬢(びん)は黒の艶紙で作る。艶紙一枚で前髪と鬢それに帯を作った。
かしらが完成すると、40cmほどの竹串の上端にしっかりしばりとめ、同じ長さの竹串を横に渡し、かしらのすぐ下で結びとめて腕木とする。かしらの下から下方に綿や柔らかい布を巻き付け、しっかりと紐で固定し胴部とする。胴部の下部に「おこし(腰巻き)」の艶紙(黄色など)を巻き、糸でしばる。次に着物を艶紙(赤色など)で作っておき、かしらの首の部分に5枚の色紙を重ねて襟をつけてから、着物をきせる。黒色の帯を着物の上から巻き、後ろに「おたいこ」を付け、紙を細く切った帯じめと帯あげで帯を固定すると出来上がりである。出来上がったアネサマは両袖の先端から出ている竹串に紙の投網(キリコ)をつけ、投網の頂にキンセンカなどの生花を付ける。これを板(30cm×40cm程度)の中央に立て、四隅に高さ約40cmの竹串をさし、それぞれに紙の投網(キリコ)を飾りつけ、頂に生花を付ける。板の前頭部にローソク立てをつけると完成である。
詳しい作り方は調査に同行した笹部いく子、尾崎織女の両氏によって図解され、「尾山の姉さまの作り方」と題して収録されている。
七夕人形は現存するものとしては、長野県松本地方と新潟県糸魚川市の根知谷のものが知られている。松本地方で七夕人形は民家の軒先に吊して飾られ、根知谷では道を横切って張られた鋼に飾られる。姉さま人形を板の上に飾りたて小川に流す尾山の事例は全国的にみても極めて珍しい七夕人形である。強いてこの人形と関連があると思われるものに、新潟県中条町の村松浜の七夕がある。ここでは姉さま風の紙人形が作られ、一緒に作られる馬乗り武者とともに七夕船に積まれて海に流される。畑野栄三氏が「郷玩文化」平成11月10月号で報告しているが、それによると村松浜の紙人形は、高さ20cm、幅10cmほどで女の子のいる家が2体を糸でつないだものを七夕船に乗せ、男の子のいる家が乗せる馬乗り武者とともに海に流される。
尾山のアネサマはそれよりかなり大きく、板の上に立てられ周囲をキリコ(紙投網)などで飾られた華やかなもので、また流す場所も海でなく、女の子が1人一体を持ち小川に入って流し歩く。アネサマが七夕行事の主役ともいえるところが特徴である。